//
you're reading...
Critique

痴デジ化

 テレビが末期症状だ。
 恥ずかしながらかつてはテレビがなければ生きていけないと思っていた僕がそう思う。 なぜテレビはここまでダメになってしまったのか? やはりそれはネットの台頭と表裏一体なのだろう。 ネットの普及によって自分たちが作って放送している番組の評判がダイレクトに聞こえてくるようになってきた。 それらの声の多くは、番組の作り手である彼らを戦慄させるものだった。
 テレビがまだ元気だった時代、彼らは自分たちが重要だと考える情報や面白いと思える事物を番組として一方的に発信してきた。 そして受け手である我々も彼らから送られてくる情報が重要であり、そしてまた面白いと思っていた。 それは両者にとって幸福な時代だった。
 しかし今ではすっかり様変わりした。 例えば情報番組。 情報を直接視聴者に向けて流すのではなく、スタジオに集めた「ひな壇芸人」たちにVTRを同時に見せ、その反応とともにお茶の間に届ける手法が主流になってしまった。 VTRを流している間、画面下にはワイプでひな壇芸人の反応が抜かれているような画がとにかく多い。 つまりスタジオ内に擬似的お茶の間を設定し、あらかじめ情報について視聴者にどのように受け取って欲しいかまでセットにして視聴者に届ける。 自分たちが発信する情報について、それが重要だとか面白いといった確信が持てないからこのような無様な手法が幅をきかすようになってしまった。
 テレビの側からしても、もはや自分たちが情報を司る全知全能の神でないことは自覚しており、視聴者に絶対的な自信をもって届けられるコンテンツなど存在しない。 故にせめてスタジオとその場の空気だけでも「共有」してもらいたいという切実な願いがそこには垣間見える。 一方、その空気を共有できない視聴者からすれば、送られてくる情報の受け取り方までゴリ押しされているに過ぎず、甚だ居心地が悪い状態に置かれることになる。
 ニュースも同じだ。 ただアンカーが事実を伝えればそれでいいものをスタジオのご意見番やら局アナやらにいちいち感想を求めて論説の真似事までやってしまう。 そしてそこにはその局の政治的な立ち位置やらスポンサーへの配慮やら有象無象が色濃く反映されて気色悪いものになる。
 いずれの現象も、本質的にインタラクティブなメディアではないテレビが無理やり視聴者と何かを共有しようと試行錯誤の末に産み出した手法なのだろうが、それ自体が見事に陳腐化してしまっているのだ。 我々は事ここに至ってテレビというものを次のように認識しておくぐらいでちょうどいいと思う。 すなわち「世の中の森羅万象を特定の利益団体の意向に沿って都合のいいように解釈し、時に歪曲させ、彼らにとって望ましい結論とともに視聴者に届けることでその思考力を奪い、愚民化させることを最終目標とする映像装置」といったものである。

 
POP UP » 笑っていいともでも韓国のごり押し
『笑っていいとも!』がキムチ鍋に続いてプルコギピザまでも1位に! – ガジェット通信

広告

Noisy Majority について

思うところを書く。

ディスカッション

コメントは受け付けていません。

Calender

2011年3月
« 2月   4月 »
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

Archive

Drink it !

コーヒー(無脳)

Instagram

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。