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アジア人物伝

フェリーチェ・ベアトの東洋

 「すいぶん昔のことになるが、ある日、私はナポレオンの末弟、ジェロームの写真(1852年撮影)をたまたま見る機会に恵まれた。そのとき私は、ある驚きを感じてこう思った。≪私がいま見ているのは、ナポレオン皇帝を眺めたその眼である≫と。この驚きはその後も決して抑えることができなかった。私はその驚きのことをときどき人に話してみたが、しかし誰も驚いてはくれず、理解してさえくれないように思われたので、私自身も忘れてしまった」

 冒頭に引用したのはロラン・バルトの「明るい部屋(1985)」の冒頭の部分である。 同著はバルトの写真論だが、僕が学生時代に記号論や構造主義にのめり込むきっかけとなった著作のひとつである。 写真というものがあまりにも普遍的なものになってしまった現代においては、バルトが嘆いたようにその草創期に撮影者そして被写体となった人々の心情を理解することは難しい。 同様に江戸末期の日本人を血の通った生身の存在として認識することは簡単ではないが、観察者の側にバルト的視座がある限り一枚の写真があればそれも可能だ。 その写真の解像度が高く、なおかつそこに自然な色彩があれば感情移入するのは一気に容易になる。 
 そんな仕事を残したのがフェリーチェ・ベアト(Felice Beato)だ。 1832年にイタリアのヴェネツィアに生まれ、今から約150年前の1863年に日本に来て20年間を日本で過ごした写真家である。 東アジアの近代史に興味がある人なら書籍やネットの何処かで必ず彼の写真を目にしたことがあるはずだ。 そんなわけで東京都写真美術館の「フェリーチェ・ベアトの東洋」を見に行った。 ちなみにこのブログのヘッダーもベアトが1863年に愛宕山から撮影した江戸のパノラマ写真に変えた。
 彼の写真家としてのキャリアは1855年にクリミア戦争の戦後の写真を撮影したことに始まる。 さらに僕の世代だと「セポイの乱」の方が通りがいいインド大反乱、第二次アヘン戦争、下関戦争、辛未洋擾を撮影し、従軍写真家の先駆けとなった。
 インド大反乱では戦後の取材にも関わらず、兵士の遺骨を掘り起こして戦場跡に並べて撮影するなど「演出」した写真を撮影している。 もっともこの時代はまだ写真機材と撮影技術が未発達(容易に戦場に持ち込めない、露光時間が長いなど)なことに加え、従軍している英軍の側からストーリーテリングも求められた。 そうしたことからこうした「再構成」はわりと一般的に行われていたようである。 そんな彼も従軍取材した第二次アヘン戦争において英軍が占拠した直後の防塁に横たわる13人の死体を見て「美しい」と興奮し、そばにいた軍医に撮影の邪魔をしないで欲しいと要請したという。
 人の死についてのベアトの執着(或いは関心)は日本に来てからも変わることがなく、処刑場の晒し首の写真(閲覧注意)を撮ったりもしている。 写真というメディアが「死の瞬間」を捉えるのはベアトからさらに65年後、35mmフィルムの開発によるカメラの携帯性の飛躍的向上を待たなければならない。 言うまでもなくロバート・キャパがスペイン内戦で撮影した「崩れ落ちる兵士(1936)」である。
 ファインダーを通して常に死を見つめてきたベアトは、一方で幕末に生きる日本人、それも市井の人々の生き生きとした姿も撮影してきた。 のちに日本を去るベアトからネガを譲り受けた日下部金兵衛ら彩色技師による一連の手彩色写真のシリーズ。 やはり手彩色ということもあり一点物なのだろう。 ただでさえ暗い照明しか当てられていない展示スペースの中に専用の個室展示スペースが設けられ、外光が完全に遮断された状態で展示してあった。 手彩色写真はこの時代の流行となったが、ベアトのそれはとりわけ精細な着色が施されており、ほとんど芸術作品である。

 挑むような目をレンズに向ける薩摩藩士、感情を読みづらい複雑な表情でカメラを見つめる女性。 学芸員の方に訊いてみたら当時の写真技術では屋外で約10秒、屋内で約30秒の露光時間を要したそうである。 即ち彼らは向けられたレンズの前でそれだけの時間静止しておくことを強いられたのである。 もし彼らが150年後の日本人が印画紙に焼き付けられた自らの姿を見ることを意識してベアトの「写真機」を見つめていたら・・・。 今の我々は彼らが何らかの思いを託したであろう末裔なのだが、当時の彼らのような「日本人」でいられているのだろうか?と自問せずにはいられなかった。 そこに写っているのは間違いなく僕より百年以上前に生まれた生身の日本人、同胞だった。 会場が暗くて救われた。

 ベアトは単なる写真家であることに飽き足らず、不動産コンサルタント、横浜グランドホテルへの出資、絨毯と女性用バッグの輸入、銀への投資と様々な事業に手を広げ、最後は破産して1884年に日本を追われた。 一度はロンドンに落ち着いた(彼は若い頃に英国籍を取得している)ものの、東洋への憧憬が断ち切れなかったのか1887年にリヴァプールから船に乗りマルタバン(ビルマ)へ渡っている。 マンダレーで写真スタジオを開業する傍ら現地の民芸品をメールオーダーで販売する事業を手がけ、後に土産物屋の支店をラングーンにも出したりしている。 もしかしたら僕も宿泊したストランドにも顔を出したことがあったかも知れない。
 日本の次に長い滞在となったビルマを1902年に去ったベアト。 最後はイタリアに戻り1909年にフィレンツェで生涯を終えた。 人生そのものが旅だった。 今度ミャンマーに行った時には時間の許す限りベアトの足跡を辿ってみたいと思う。
 
 
A biography of the artist Felice Beato from the J. Paul Getty Museum
Views of Japan. / Felice Beato. – NYPL Digital Gallery
Felice Beato’s Japan: People

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