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Books, 昭和

九州ライオンズ激闘史

141116a 明治通りからお堀を渡り福岡城址の石垣を横目に緩やかな坂を登るとバックネット裏の正面入口に辿り着く。 そこは子供時代の僕にとってのフィールド・オブ・ドリームス。 薄暗い階段を登っていくとライオンズ私設応援団が打ち鳴らす太鼓やトランペットの音が上から降ってくる。 やがて目の前にカクテル光線に照らされた緑の芝生と黒土のグラウンドが広がる。 それが父親に初めて連れて行かれた平和台球場の記憶。 1974年のこと。
 太平洋クラブライオンズ。 数年前まで西鉄ライオンズという名前だったその球団には野武士軍団と言われた彼らの残り香が確かにあった。 僕がファンになったのも子供心にそれを嗅ぎ取ったからだろうと思う。
 お世辞にも強いチームではなかった。 だからこそ応援のしがいがあった。 初めて観戦に行ったその日に父親にせがんで太平洋の野球帽を買ってもらった。 でも小学校のクラスに太平洋の帽子なんか被ってる友だちは一人もいなかった。 大抵は白や黄色の学童仕様のYGマークの帽子。 友だちと野球の話をしても王や柴田、堀内のことばかり。 こちらは大田や竹野内、東尾のことが語りたいのだから話が一向にかみ合わない。
 平和台球場は小学生の僕からすればやはり大人の社交場。 ビジターチームへの汚い野次、くたびれた背広や煙草の匂い、今では絶滅したダブルヘッダー、当時それがプロレス的なものだとは知らずに盛り上がっていたロッテとの遺恨試合。 そんな「劇場」がとても恋しくていつも父親にねだって連れていってもらった。 スタンドで食べた丸天うどんの味も忘れられない。 僕の子供時代のうどんはこの平和台球場と西鉄貝塚駅の立ち食いうどんが双璧。 ナイター観戦しながら食べるうどん。 それは当時の僕にとって至福の時間だった。
 やがて太平洋クラブからクラウンライター、そして西武へと身売りしてライオンズは福岡から去った。 それでも僕はライオンズファンであり続けた。 東京に住むようになってからもそれは変わらない。 東京に住んだからといってにわかに巨人やヤクルトのファンになどなれるわけがない。
 地元球団を失った福岡には僕が東京に移り住むのと入れ替わるようにダイエーホークスがやってきた。 僕はライバルだった(南海)ホークスが福岡に定着することなどありえないと考えていた。 そこで帰省した時に平和台でダイエー対西武のデーゲームがあったので観に行ってみたのだが、内野席のライオンズの私設応援団は健在。 今から思えばまだこの頃は福岡の人々もライオンズとホークスどっちつかず状態の奇妙な時期だったが、それから数年の時を経てホークスは福岡に完全に定着した。 これは王監督の功績によるところが大きいと思う。
 今では僕の小学校時代のクラスメイトもみんなすっかりホークスファンである。 当たり前といえばそれまでだが、ライオンズが本拠地にしている頃に当時のクラスメイトたちが今ホークスに対してそうしているようにライオンズを応援してくれてさえいたら、たぶんライオンズは所沢に行かなくても済んだのだ。
 前置きというか回想が長くなってしまったが「九州ライオンズ激闘史」はすべてのライオンズファン必読である。



 
西鉄ライオンズ・アーカイブ

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